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太平洋戦争 解説

満州事変

1931年9月に日本の関東軍が中国東北地方の柳条湖で鉄道を爆破した。(柳条湖事件)
日本はこれを中国側の仕業だとして軍事行動を起こし、翌年3月には清朝最後の皇帝・溥儀を擁立して満州国を建国した。
中国の要求により国際連盟からリットン調査団が派遣され、日本の行動は認められないと打診された。これを受けて日本は国際連盟を脱退した。


慮溝橋事件

1937年7月7日深夜、北京郊外の盧溝橋周辺で夜間演習を行っていた日本軍に対し、付近の中国軍陣地方面から発砲があったことをきっかけに両軍の衝突が起こった。発砲は偶然起こったものであり、日本は事態の収束を急いだ。
しかし、中国側は国民党と共産党による対日統一戦線が形成されており、強硬姿勢を崩さなかったため、日中全面戦争へ発展するきっかけとなった。

南京事件

上海を占領した日本軍は、首都・南京を占領するために追撃部隊約20万人を送り込んだ。
12月11日から南京城へ日本軍の侵入が始まると、中国軍は城外へ撤退を開始した。
17日に入場式を行うよう命令が出され後、徹底的な掃討が実施され、占領後の一般住民の虐殺・凌辱が行われた。
犠牲者数については諸説あるが、中国側では30万人とされている。

ハル・ノート

1941年11月26日1に米国が日本に対して提示した交渉文書である。
要求内容は中国からの全面撤退や、三国同盟からの脱退を求めるなど、日本政府にとって到底受け入れられるものではなかった。
これを受けて近衛文麿内閣が総辞職し、東條英機内閣が誕生した。
東條内閣により日米交渉の妥協案(甲・乙案)が作成されたが、日本は12月1日午前0時に交渉がまとまらなければ8日に開戦する方針を固めていた。

真珠湾攻撃

1941年12月8日に行われた日本軍による奇襲攻撃作戦である。
ホノルル日本総領事館秘密諜報員森村正による178通におよぶ情報をもとに作戦が遂行された。
攻撃部隊が日本を出港したときは日米交渉が引き続き行われていたが、
12月2日に対米英戦争開戦を意味する暗号「ニイタカヤマノボレ1208」を受信した。
艦載機のみで米軍太平洋艦隊を全滅させることに成功したこの作戦は世界に衝撃を与え、以後の海戦に大きな影響を及ぼした。

マレー沖海戦

12月10日に勃発した英海軍との戦闘を指す。
作戦行動中の英海軍最新鋭戦艦「プリンス・オブ・ウェールズ」と巡洋戦艦「レパルス」を日本海軍航空隊の攻撃機が撃沈した。
これにより、日本軍は東アジアおよび西太平洋の制海権を掌握することに成功した。
戦史上、航空機のみで作戦行動中の艦艇が撃沈されるのは前例のないことであった。

ドゥーリットル空襲

米軍による初の本土空襲であり、東京・横須賀・名古屋・神戸などが爆撃を受けた。
作戦に参加した米軍B25戦闘機16機の搭乗員は、8人が日本で捕らえられ、うち3人は処刑された。
戦後の調査では死者・負傷者合わせて約550名が出たほか、290戸の家屋が被害を受けたとされる。
日本政府内において、このままでは再び本土が爆撃されるという認識が強まり、ミッドウェー作戦実行の引き金になったとされている。

ミッドウェー海戦

1942年6月5日から勃発した海戦のことで、日本は参加した空母4隻すべてを失うという惨敗に終わった。
敗因としては、
  ・米軍による暗号解読により攻撃目標が事前に知れ渡っていたこと
  ・撃沈したと思い込んでいた米軍空母「ヨークタウン」が参加したこと
  ・艦載機に搭載する武器の交換作業中に攻撃を受けたこと
が挙げられている。
主力空母のほか、日本軍は多数の艦載機および熟練の搭乗員を失い、一気に戦局は悪化した。

ガナルカナル島の戦い

ミッドウェー海戦で主力空母を失った日本軍が前線で作戦を行うためには、空母の代わりになる新たな飛行場の建設が必要となった。
そこで、日本軍拠点のラバウル基地がすでに激しい空襲を受けていたことや、トラック諸島防衛のため、ガダルカナル島の飛行場完成が最優先事項となった。
しかし、米軍は飛行場建設の情報を事前に得ており、飛行場完成の8月7日に日本軍は米軍に飛行場を奪取されてしまった。
その後もガダルカナル島をめぐりソロモン海戦や南太平洋海戦が起きたが、日本軍は被害を増すばかりだった。
最終的に1943年2月1日から7日にかけて日本軍はガダルカナル島から撤退した。
陸軍約28,000人・海軍約3,800人が戦死し、陸軍約9,800人・海軍約830人救出された。

アクタン・ゼロ

日本軍の主力戦闘機として活躍していた零戦の特徴は、航続距離が長いことと高い空中戦能力を持つことであり、米軍からは「ゼロファイター」という名で恐れられた。
米軍はアリューシャン諸島・アクタン島に不時着したほぼ無傷の状態の零戦を捕獲し、実際にテスト飛行をして分析を行った。
これにより零戦の弱点である装甲の薄さや、急降下時に不備があることなどが発見され、敵国の戦闘機開発や対零戦戦闘法の開発に活かされた。

インパール作戦

1944年3月8日から7月31日にかけて実施されたインド攻略作戦を指す。
当時インドはイギリスの統治下であったが、隣国のビルマは1942年から日本の占領下となっていたため、蒋介石援助ルートが遮断されており、これを再開させることが連合軍の目的であった。
これに対して日本は、中国軍の弱体化とビルマの防衛を図ろうとした。
配下の師団長らは標高2,000メートルのアンカラ山脈を越えなくてはならないなど、補給の困難さがあるとして反対するも、第15軍司令官牟田口廉也中将は作戦の敢行を決定した。
軽装備かつ補給なしで3週間以内に占領するという作戦のため、日本兵に渡されたのは3週間程度の食糧のみだった。
日本軍は4月中旬には包囲網を敷くまでに至ったが、食料は底をつき、5月からの雨季により体力を奪われ、6月には形勢が逆転した。
戦死者38,000名、餓死者等を含む戦病者40,000名もの犠牲を出した作戦となった。

レイテ沖海戦

10月23日より始まった、日米両海軍総力戦となった海戦。
作戦概要は空母部隊が囮となって敵を誘い出し、湾内に集結した米艦隊を遊撃部隊が撃滅するというものである。
囮となった小沢機動部隊は空母4隻を失うが、敵を北方へ誘い出すことに成功した。
しかし、攻撃隊である西村艦隊はスリガオ海峡で米機動部隊の待ち伏せにあい、駆逐艦1隻を除いて全滅した。
また、その後到着した志摩艦隊が状況を不利と判断して引き返したため、作戦は継続不可能になった。
主力である栗田艦隊はシブヤン海で戦艦「武蔵」を撃沈された後、レイテ湾目前まで迫るも突入せずに反転した。
このような行動をなぜとったのか、理由はいまだ解明されていない。

本土空襲

ドゥーリットル空襲から2年後、マリアナを基地とした米軍による本土空襲が本格化した。
当初の空襲は、米軍指揮官ヘイウッド・ハンセル准将が無差別爆撃に批判的であったことから、目標を軍事施設のみに限定し、ピンポイントで攻撃するというものであった。
実際にこの方法を行うのは難しく、戦果が乏しかったため、カーチス・ルメイ少将が代わって指揮官となった。
そこで、一般家屋を攻撃することで軍需工場の生産力の低下や生活基盤の破壊につながると考え、計画されたのが、木造建築の日本家屋に有効である焼夷弾を用いた大規模な都市無差別空襲だった。
以降大都市を中心に絨毯爆撃が行われ、民間人へも多大な被害が出ることとなった。

神風特別攻撃隊初陣

最初の神風特別攻撃隊は本居宣長の和歌から「敷島」「大和」「朝日」「山桜」隊と名付けられた。
攻撃を発案したのは海軍司令部、実施命令を出したのは第1航空艦隊司令長官大西瀧治郎中将とされている。
10月25日に関行男大尉率いる敷島隊13機が特攻を実施し、米軍護衛空母「セント・ロー」を撃沈した。
フィリピン特攻での神風特攻隊の出撃数は424機にのぼり、空母・戦艦ほか輸送船を含む56隻を撃沈・撃破59隻という戦果を挙げた。
日本側の損失は陸海軍の特攻機合計435機と戦死搭乗員251名であった。

硫黄島の戦い

日本軍は総兵数約22,000名を配置し、全長18キロにもなる地下壕を作り長期戦に備えたり、ゲリラ戦を展開したりと米軍に抵抗した。
3月17日に大本営から電報が届き、硫黄島守備隊は総攻撃を仕掛け、組織的な戦闘を終えたが、洞窟に残っていた兵士らが戦闘を続行したため、6月まで戦闘は続いた。
この戦いでは、予科練設立委員長かつ予科練初代部長を務めた、海軍側の守備隊長だった市丸利之助少将が戦死を遂げたとされる。
日本側の戦死者は20,129名にのぼり、生還者は1,213名だった。米軍からは戦死者28,686名という犠牲を出した。

東京大空襲

1945年3月10日午前0時過ぎに米軍B29戦闘機約340機による約2時間半におよぶ大空襲が行われた。
浅草などの下町を標的とした絨毯爆撃が行われ、約40平方キロメートルもの人口密集地が焦土と化した。
この時の空襲は低空からナパーム高性能焼夷弾がポイントを取り囲むように投下され、その内部をすべて焼き尽くすという方法がとられた。
被害については死者8万人以上、負傷者4万人以上、被災者100万人以上とされているが、実数の把握は難しく、死者・行方不明者の数は10万以上にのぼるといわれている。

沖縄戦

1945年4月1日午前8時30分に将兵約18万名の米軍第10軍が沖縄本島・中部西海岸への上陸作戦を開始した。
支援部隊を含めると兵力は約55万名にものぼった。対する日本軍守備隊は総勢11万名程度だった。
5日には連合艦隊司令部により天一号作戦と称して戦艦「大和」ら第1遊撃部隊8隻が出撃するも、7日に薩摩半島坊の岬沖で戦艦「大和」が沈没した。
日本軍は5月3日以降に総攻撃を2度行ったが、戦果はなく、この時点で64,000名の戦死者が出ていた。
5月27日から日本軍は南部の摩文仁へ撤退を開始するが、米軍の攻撃は勢いを増すばかりだった。
6月23日に牛島中将および長勇参謀長が自決したことにより、組織的抵抗が終了した。
日本軍戦死者は沖縄全体で約75,500名にのぼり、このうち本島内で65,000名が犠牲となった。
また、集団自決・投身自殺により民間人からも多くの犠牲者が出た。
米軍側の損害は戦死者約14,000名、負傷者約32,000名であった。

原爆投下

1945年7月16日にアメリカが原爆実験に成功したときには、すでに原爆投下候補地がいくつか選定されており、軍事施設を持つ京都・広島・横浜・小倉が挙げられたが、横浜は皇居に近いため除外された。
皇居がある東京は、天皇が死去すると戦後の日本統治が難しいことや、日本人が降伏しない事態が想定されたことにより除外されていた。
第1目標は京都に決定されたが、反発を大きくするという懸念から、約3ヵ月の議論を経て除外する方針が決定され、代わりに投下候補地に選ばれたのが長崎だった。
最終的な第1目標は広島・第2目標は小倉・第3目標は新潟か長崎に決定され、7月25日に米戦略空軍司令官カール・スパーツ陸軍大将より正式命令が発せられた。
8月6日に「エノラ・ゲイ」が広島に原爆を投下し、9日には「ボックス・カー」が、小倉造兵廠へ飛行したが、原爆投下条件である目視ができなかったことや燃料不足・天候悪化により投下を中止し、目標地点が長崎に変更された。
長崎も原爆搭載機が到着したときの天候は良好なものではなかったが、目標よりやや北の長崎市街を目認できたため、投下された。

ポツダム宣言受諾

原爆投下やソ連の宣戦布告により、日本政府はポツダム宣言受諾へ動き出した。8月9日に最高戦争指導会議が開かれたが、受諾条件が一致しなかったために御前会議が開かれた。
天皇は国体護持のみを条件とする東條英機外相の意見を支持し、10日に連合国側に向け回答電報が打たれた。
翌日に連合国側から統治権限は連合国軍最高司令官制限のもとに置かれるという返答が返ってきたため、13日に再び議論がなされた後、14日に御前会議で昭和天皇が戦争継続中止を表明し、日本政府は無条件降伏することを決定した。

降伏調印式

1945年9月2日に東京湾に碇泊するアメリカの戦艦「ミズーリ」の艦上で行われた。
日本側からは、政府全権を担う重光葵外務大臣が出席したほか、大本営全権の梅津美治郎陸軍大将などが乗艦した。
連合国側からは、最高司令官であるダグラス・マッカーサー陸軍元帥ら各国代表が出席した。
そして、8月30日から6年間にわたり、日本は連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)の占領統治下に置かれた。
間接統治方式が採られ、国民を直接統治するのは日本政府とされた。しかし、実質的にはGHQにより支配されているようなものだった。
占領統治下では5大改革が行われ、日本の民主化が進められていった。

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