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予科練生:誕生

なぜ飛行機が動員された?

アメリカのライト兄弟がグライダー実験に刺激され、飛行機の研究を開始し、1903年12月世界で初めて動力飛行に成功したことが飛行機の登場である。
アメリカ軍は飛行機を偵察用に使うため、制作に乗り出した。
1908年頃には日本にも飛行機の情報が伝わっており、1904年に起きた日露戦争で多くの犠牲者を生み出したことなどを反省し、日本でも飛行機の軍事導入を決定したものとされる。

東洋一の航空隊養成計画

まず、日本軍は飛行機の操縦訓練や運営・整備などの研修を目的として、金子少佐以下数名を欧米に派遣したのち、海軍は航空技術研究所を神奈川県横須賀の追浜に設けた。
1912年には米軍のカーチス飛行機とフランスのファルマン飛行機二機を輸入し、追浜飛行場で操縦訓練が開始された。
そして1916年4月1日に、海軍で最初の航空隊である「横須賀海軍航空隊」が誕生した。
その後、日本海軍は本格的に飛行機の訓練を行うため、陸上機・水上機両方の訓練ができる地域を探すべく全国調査を行った。
条件を満たし、首都圏に近い阿見原と霞ヶ浦が最適地として選ばれ、当時としては東洋一の教育訓練のための飛行場を造ることが計画され、1922年に「霞ヶ浦海軍航空隊」が開隊した。

予科練制度の誕生

1918年6月21日の臨時海水艇航空機調査会による『海軍航空学校設立の建議書』で、海軍航空学校を「茨城県稲敷郡阿見村」に設立することが記載されたが、実現には至らなかった。
しかし、論議が重なるにつれ、少年航空兵を養成する必要性が認められはじめた。そして、1930年5月に発表された『海軍練習航空隊令』の中に、「予科練習生」と言う名称で海軍航空兵の教育制度が加えられ、市丸利之助少将を初代部長として神奈川県横須賀で予科練制度が発足した。
第1期予科練習生の志願者数は全国で5,807名にものぼり、そのうち79名が厳選された。
その後、陸上機・水上機双方の訓練を行えるとして、予科練は1939年3月に阿見村へ移転し、翌年には予科練生の教育を行う「土浦海軍航空隊」が誕生した。

試験

海軍人事部が少年航空兵募集ポスターを発布したり、教師や先輩らがアドバイスをしたりするなどの募集支援が行われた。
志願者は都道府県知事の海軍志願者募集告達に基づき、受験願書を市町村役場に提出し、試験に臨んだ。
1次試験では、都道府県の各地に設けられた試験場で学力試験が実施され、いずれも国定教科書をしっかり勉強していれば充分解ける内容だった。たとえば乙種課程では、算術(算数)・読書(国語)といった高等小学校卒業程度の問題が出題された。
2次試験では、横須賀・舞鶴・呉・佐世保鎮守府の指定する海軍航空隊等で、適性・身体検査のほか、口頭試問などが行われた。 また、身体検査の基準は、一般の海軍志願兵よりも厳しいものだった。
身体検査の基準
17才未満 16才未満 15才未満
身長(㎝)
155.5以上
153.0以上
152.0以上
体重(㎏)
45.0以上
43.0以上
41.0以上
胸囲(㎝)
77.0以上
74.0以上
72.0以上
肺活量(㏄)
2,800以上
2,700以上
2,600以上
各眼視力
1.2以上
1.2以上
1.2以上

憧れの予科練生へ

2次試験を突破した合格者には、各鎮守府から合格通知が届けられた。合格は本人だけでなく、故郷や母校においても大きな誇りとして、壮行会が開かれた。
しかし、これで正式に合格したわけではなかった。
入隊式を待つ間に合格者は身体・適性検査のほか口頭試問によるさらに厳しい選抜が行われ、不合格者は故郷へ帰らなくてはならなかった。
そして、厳しい選抜試験に最終的に合格した者のみが入隊式に臨み、海軍の軍人である予科練生になることができたのである。

給与

採用直後の予科練生には海軍4等航空兵の階級が与えられ、以下のような進級制度のもと、各階級に応じて給与が支給された。
また、航空機に搭乗するようになると航空手当が支給されたため、他の兵科よりも高い給与をうけた。

進級・給与の概要(1935年頃)
年齢 階級 俸給 航空手当 食費 合計
15才
四等航空兵
6円20銭
6円20銭
16才
三等航空兵
11円60銭
11円60銭
17才
二等航空兵
13円10銭
13円10銭
18才
一等航空兵
16円00銭
20円00銭
36円00銭
19才
三等航空兵曹(二級)
21円60銭
30円00銭
51円60銭
21才
二等航空兵曹(二級)
27円40銭
30円00銭
57円40銭
22才
一等航空兵曹(四級)
34円70銭
30円00銭
64円70銭
25才
航空兵曹長(四級)
77円50銭
40円00銭
22円50銭
140円50銭
29才
航空少尉(二級)
114円00銭
60円00銭
27円00銭
201円00銭

被服

被服は以下のものが支給され、ふんどし以外の私物の被服を持つことは禁止された。
現在「7つボタン」の制服は予科練の象徴と認識されているが、この制服が支給されたのは1936年11月以降である。それまでは「ジョンベラ」と呼ばれるセーラー服を着用していた。

支給された被服(1943年頃)
種類 数量 種類 数量
制服・冬服(7つボタン)
1
体操帽
1
制服・夏服(7つボタン)
1
運動靴
1
外套
1
ズボン吊り
1
雨衣
1
短靴
1
帽子
1
作業服
3
冬シャツ
2
靴下
4
冬ズボン下
2
カラー
2
夏シャツ
2
第一種略帽(冬)
1
夏ズボン下
2
第二種略帽(夏)
1
脚絆
1
帽子覆い
1
体操着
1
衣襄
1

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