zero





TOP

特別攻撃隊:誕生

現在では神風特別攻撃隊が特攻の代名詞となっているが、海軍航空隊だけが行った作戦ではなく、陸軍も大規模な航空特攻を実施した。
航空特攻のほか、海軍では人間魚雷と呼ばれた特殊潜航艇を開発するほか、潜水具を用いた水上特攻が行われた。また、陸軍では戦車・輸送トラック等による攻撃部隊が編成された。そして、両軍ともにモーターボートによる攻撃が実施された。

なぜ開発が進んだのか?

1942年6月のミッドウェー作戦で主力空母4隻と熟練搭乗員の多くを失うという多大な損害を受けた日本軍は、劣勢を極めた。
この状況を打開すべく、開発されたのが特攻兵器の数々である。
構想を具体化させた時期は、航空特攻は海軍の神風特攻隊よりも陸軍航空特攻のほうが早い段階で行われており、海軍内では水中特攻の構想が進んでいた。
1944年7月のサイパン陥落前から、開発自体は極秘に行われ、4月4日に黒島亀人第2部長が第1部長の中澤祐少将に実現を急ぐべきだとして、以下の7つの兵器を挙げたとされる。これをもとに、海軍本部は機密保持のために特攻兵器を「金物」と称して①から⑨の番号を付し、開発・実験体制の整備を急いだ。

特攻の必要性

特攻作戦実施のきっかけとなったのは、マリアナ諸島の喪失と伏見宮海軍大将の発言であるとされている。
1944年6月24日にサイパン島の放棄を天皇へ奏上したが反対されたため、翌日に元帥会議が開かれた。その際伏見大将が「レーダー対策や資源量において敵国が上であることを指摘し、このままではよい結果を得られないため陸海軍とも対策を急ぐべきである」という旨の発言をしたとされる。
実際には、この時すでに特攻兵器は実用化の直前にあり、各種とも試運転や量産化に入ろうとしている段階だった。

1944年7月28日から行われた捷号作戦における『日本海軍正式作戦文書作戦要領』に「特攻部隊」の項目が設けられ、初めて正式に特攻の文字が使用されるなど、特攻が正規の戦力として扱われるようになっていった。

海軍航空隊からの要望

1944年8月には海軍航空部隊からの航空特攻の実施を求める声が高まったことにより、急遽金物兵器に含まれていなかった航空特攻兵器の開発が決定された。航空特攻の実施については、1944年の春頃に海軍省兵備局第3課長大石保大佐が、意見書を軍務局所属の山本善雄大佐に提示しているほか、6月には館山第341航空隊司令の岡村基春大佐が福留繁第2航空隊司令長官に航空特攻について意見を述べている。
しかし、その後数度にわたり、上層部へ航空特攻の実施について進言されたが、上層部は航空特攻の実施を決定しないままだった。上層部が航空特攻の実施を躊躇した理由としては、ほかの特殊兵器と違い隠密性に欠けることや、人道問題に関わること、破壊効果がさほど大きくないのではという疑念があったからだとされる。

そうした中で、人間爆弾の構想がなされた。1944年5月頃に厚木第1081航空隊に所属する偵察員大田正一特務少尉の着想を、同隊司令官の菅原英雄中佐に上申したことが発端とされる。
ロケット付グライダーは、1式陸上攻撃機に搭載し、敵艦艇に接近して切り離し、あとは乗り込んだ搭乗員の操縦によって攻撃を仕掛けるものであり、後に『桜花』と名付けられ、8月16日に試作命令が出された。

神風特別攻撃隊初陣

1944年10月23日から行われていたレイテ沖海戦にて、神風特別攻撃隊が初陣となった。攻撃を発案したのは海軍司令部、実施命令を出したのは第1航空艦隊司令長官大西瀧治郎中将とされている。
10月25日に関行男大尉率いる敷島隊13機が、米軍護衛空母「セント・ロー」に体当たり攻撃を敢行し、見事撃沈することに成功した。フィリピン特攻での神風特攻隊の出撃数は424機にのぼり、空母・戦艦ほか輸送船を含む56隻を撃沈・撃破59隻という戦果を挙げた。日本側の損失は陸海軍の特攻機合計435機と戦死搭乗員251名であった。

                                                            

TOP このページの先頭へ