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特別攻撃隊:兵器

海軍特攻兵器① 『零式艦上戦闘機』


皇紀2600年(西暦では1940年)に制式されたことから、「零式」と命名された。略称は「零戦」で「れいせん」や「ぜろせん」と呼ばれる。
三菱重工業が設計し、中島飛行機と合計して1万機以上をほぼ半数ずつ生産した。
開発時の海軍の要求は航続距離・武装・速力・格闘性能の全てを兼ね備えるというもので、軽さを優先した設計があだとなり、防御力の低いものとなった。
後継機の実用化が遅れたため、終戦まで海軍の主力戦闘機として動員された。

1940年9月13日の中国戦線で初陣し、味方から撃墜機を出すことなく、敵27機すべてを撃墜したという戦果が報じられた。
太平洋戦争開戦時は、圧倒的強さを誇り、米軍からは「ゼロファイター」という名で恐れられた。
しかし、1942年6月にアリューシャン諸島・アクタン島に不時着していたほぼ無傷の零戦が米軍により鹵獲され、この機体をもとに徹底的な研究が行われた。
これにより、零戦が優れた旋回・上昇・航続性能を持つ一方で、高速時の横転や急降下の性能に問題があることが敵国側へ明らかになり、日本は苦戦を強いられることとなった。
特攻に動員された零戦は631機にのぼる。

海軍特攻兵器② 人間爆弾『桜花』

11型の場合


専門に開発・実用化された航空特攻兵器としては世界唯一のものである。
自力で離陸することができないため、1式陸上攻撃機に搭載し、分離する方式が採られた。
一撃で敵艦を撃沈させることができる兵器であると同時に、必死兵器でもあった。

桜花自体の重さは440kgほどだったが、武装による総重量が1式陸攻の能力を制限してしまうため、目標接近前に母機ごと撃沈されることが多かった。
米軍からは日本語の馬鹿にちなみ、「BAKABOMB(バカボム)」というコードネームで呼ばれた。
特攻に実際に投入されたのは55機とされるが、生産数は改良型を含め750機にものぼるとされている。

海軍特攻兵器③ 人間魚雷『回天』

基本構造は直径61センチの93式魚雷を直径1メートルの鉄製の筒で覆ったものである。
当時は人間が載って水中を走る乗り物のなかで最高の速さを誇った。
最高速度で敵のレーダーをかわし確実に突撃させるため、魚雷の3倍の炸薬量を搭載していた。

実用当初は停泊中の艦船を撃沈するなど成功をおさめていたが、次第に警戒が強まり、発進することのないまま帰還する場合もあった。
終戦までに1,375名が訓練を受け、整備員を含め145名が戦死した。
総数は420基とされている。

海軍特攻兵器④『震洋』

5型の場合

艇首に250kgの爆装を施し、夜間に集団で奇襲を行い、体当たり攻撃によって敵上陸部隊の艦船を撃沈するために開発された。
水上を走行するときはベニヤが軽く、重ね合わせることにより強度が増すことが構造の利点であった。
末期には高速化が図られたり、敵の機銃を破壊して目標へ到達するために120ミリロケット式散弾が搭載されたりした。
戦没者は推定で1322名にのぼり、終戦までに6,200隻が進水した。

海軍特攻兵器⑤『伏龍』

1945年2月頃から、B29により投下された磁気機雷などにより海上が封鎖され、3月中旬にそれらを処理するために作られた簡易潜水具を特攻に用いようとしたものである。5月26日に特攻兵器として制式後、命名され、3000名分を整備するよう命令が下された。
10名で1部隊を編成し、棒機雷で敵艦船の船底を海中から突き、撃沈させるとして、本土決戦における徹底抗戦のための切り札とされた。

機雷は先端の突起が起爆装置になっており、これが折れると導火薬に点火・爆発する仕組みになっていた。
大量生産された実戦配備型は空気洗浄中に海水が入ると強力な悪性ガスを発生させ、潜水員が死亡する例が多発した。
1945年4月から5月にかけて編成され、6月に先遣隊要員480名が選抜された。主力は予科練生であり、横須賀対潜隊学校に集合して本格的な訓練が開始されたが、実戦に至ることなく終戦を迎えた。

陸軍特攻兵器①『99式襲撃機』

 

1938年に日本陸軍が確実な戦果を求め、敵飛行場の航空機や地上部隊の装甲車両等を攻撃する機体(襲撃機)の配備を計画し、1939年に正式に採用され、「三菱キ-51 99式襲撃機」と命名された。機体名は最初に開発所、次に機体番号を表し、正式年数は皇紀2599年からとられた。

当時の日本機にはめずらしく、機体の主要部を厚さ6ミリの装甲で保護したり、燃料タンクをゴム被膜で覆ったりするなど、最初から防弾対策が採られていた機体である。戦地での酷使にも耐える頑丈さを持ち、低空での運動性の高さや操縦性の良さも高く評価された。
一方、爆弾搭載量が少なく、航続距離が短いことから活躍する機会は限定された。

次第に旧式化し、戦闘機に撃墜されることが多くなったが、信頼性の高さから終戦まで第1線で活躍し、終戦までに偵察機を含め2,000機が生産された。

陸軍特攻兵器②『マルレ(四式連絡艇または四式肉迫攻撃艇)』

1944年6月15日に設計を開始し、7月11日に試験演習を行った。海軍特攻兵器の『震洋』によく似るが、『マルレ』は特攻兵器として開発されたものではないことが大きな違いである。
当初は艇の後方に搭載した爆雷を操縦者が海面に落とし、Uターンして帰ってくるために用いられた。しかし、正面から体当たりを行ったほうが戦果は確実であるとして、特攻兵器と化した。

陸軍海上挺進隊の戦死者は1,704名にのぼるが、マルレで出撃し、戦死したのはそのうち192名である。 残りは前線へ移動中に輸送船を撃沈されたことによる海没戦死や、船艇を喪失した後の空襲や陸上戦闘に参加して亡くなった。

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